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本当は怖い圏論

2025/08/02

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twitter pixiv yukicoder お題箱 マシュマロ

趣旨

圏論は表現力が強く、数学の様々な現象を統一的に記述することが可能な理論です。他の数学の分野と同様、世の中には圏論を専門とする素晴らしい数学者がたくさんいて、厳密な研究がなされています。

一方で圏論は非専門家(非数学者含む)にも人気で、その汎用性が独り歩きしてしばしば間違った解説が書かれます。圏論自体は厳密な分野ですが、その適用に関しては厳密さが失われているものが多いということですね。ここではそういった側面に注目して、具体的な主張が誤りか否かを解説していこうと思います。

この記事を通して、ネットの圏論記事を鵜呑みにしないことの大切さを学んでいただければと思います。筆者($p$進大好きbot)も圏論に関しては専門知識を持っていないので、この記事自体を過信しないようにご注意ください。また間違いがあれば教えていただければ幸いです。

注意

そもそも数学における「間違い」とは何か、を気にする必要のある話題です。というのも、圏論における間違いの多くは集合論的問題(記載された議論を集合論の中で文字通りに厳密に扱おうとすると破綻うる類の誤り)に起因するもので、世の中には集合論的問題を「間違い」とはみなさない人達がいるためです。

これは非常に繊細な話であり、前提の共有なく「間違い」について述べることで意図せず誰かを傷つけてしまうことにもなりかねないと思うので、長々と書かせていただきます。

例えば

  1. 集合論的問題は、集合論の専門家が見れば基本的に簡単に解決できるものだから、そんなものは気にする必要がない。
  2. 普段数学をやっている際は集合たちがどのような性質を持つか(つまりどのような公理を課すか)を気にせず素朴に議論する人が大半であるため、圏論をする際も素朴にすれば良い。

という立場があります。

一方で著者はそうではなく、以下のような立場を取っております。その立場が受け入れられない人は数学における「間違い」に関して見解が異なります。

何を「間違い」と呼ぶかについて意見の異なる人に意見を押し付けたいわけではなく、そういった方々にはこの記事を読む利点もないと思うので、記事を閉じることをおすすめします。

  1. 何かを「気にする必要があるかどうか」はもはや気持ちの問題なので個々人に委ねられまする。それを踏まえてある程度の共通の規範があるとすれば、それは「数学で何かを公開する際には書き手が誠実さを持つべきであるということ」である、と著者は信じています。そしてその誠実さに基づいている範疇であれば、何らかの問題を気にしないということも妥当だと考えています。
    • 具体的には、数学においては書き手がその内容について正確性を担保すべきであり、書き手に正確性が分からない部分は少なくともそう明記することが数学を行う上での誠実さだと思っています。
    • 結果的に専門家が見れば簡単に解決できたとしても、それは結果論であって書き手が誠実さを尽くした結果ではないと考えています。
      • これは集合論に限った話ではありません。数学の分野に貴賤はないという立場で、集合論以外も「専門家が見れば簡単に解決できる議論の飛躍」を気にしないことは誠実さを欠いていると考えています。
      • 例えば至るところで$0$除算や根拠のない積分の順序交換を行う文書を公開した時、それは結果的に専門家が見れば簡単に解決できる議論の飛躍であったとしても「間違い」であると考え、それを気にする必要がないとするのは書き手が誠実さを尽くした結果ではないと考えています。
      • 例えばネーター性なりコンパクト性なり非空性なりを課さなければ成り立たない命題を何の条件も明記せずに主張した時、それは結果的に専門家が見ればどの条件を追加すべきか明白であったとしても「間違い」であると考え、それを気にする必要がないとするのは書き手が誠実さを尽くした結果ではないと考えています。
      • ここで誠実さが欠けると考えているのはあくまで「誤りに関して専門家が見れば簡単に解決できるから気にしなくても良い」という立場についてであって、厳密な議論を尽くそうとした結果として残念ながら誤りを記述してしまいそれを自責的に処理する分には誠実さを欠いていないと考えてます。
    • ここでは思考実験や予想時の話をしているのではなく、あくまで命題を断言したり証明として記載する時の誠実さの話です。従って思考実験や予想時は好きにすればよいと思っています。ただし予想は予想であると明記し、未証明な命題であることを誤解なく伝える責任はあると思っています。これは「誰が最初に証明したか」や「誰かが誰の恩恵で何を学べたか」に関するcreditに関わる重要な問題だと考えています。
  2. 集合を素朴に扱ったとしても、ラッセルのパラドックスやヴラリ・フォルティのパラドックスのような明らかなパラドックスは避けられる何かしらの制限を持つことが共通の認識だと思っています。逆に言うと、もし文字通りに読むとそのようなパラドックスが生じるような議論をしているのであれば、それは素朴な立場であっても「間違い」であると考えています。
    • これは集合論に限った話ではありません。数学の分野に貴賤はないという立場で、集合論以外であっても素朴な立場でパラドックスを生じさせたの出ればそれは「間違い」であると考えています。
    • 例えば素朴に線形代数をやって「$\mathbb{F}_2$線形空間全体の空間が対称差演算について$\mathbb{F}_2$線形空間をなす」と主張してパラドックスを起こしたら、それは「間違い」であると考えています。
    • 同様に圏論においても、もし定義を文字通りに読んでパラドックスが生じるのであれば、それは「間違い」であると考えています。
    • 上記した集合論の2つの具体的なパラドックスらに関しては特に「~全体」というものを取って良いのはどのような時だけにするかを(分出公理や置換公理の名前は出さずとも)ある程度念頭に置いているものだと思います。
    • 一方で圏についてはそのような共通認識があるとは主観的には感じておらず、安直に「~全体の圏」という表現が多様されています。それによりパラドックスが生じるのであればやはり「間違い」であると考えています。
    • また多くの数学の理論と異なり、圏論においては実際にどのような公理を課すかによって議論が正当化できるか否かが変わりやすいです。従って暗黙に課されがちな$\mathsf{ZFC}$公理系で正当化できない議論をしておいて何か問題が指摘されてから「当然グロタンディーク宇宙の存在を課しています」とか後出しで条件を追加して正当性を主張することは、他の分野において「当然ネーター性/コンパクト性/非空性を課しています」と後出しで条件を追加して正当性を主張することと同様に誠実さを欠いていると考えています。これもまた「誰が最初に証明したか」や「誰かが誰の恩恵で何を学べたか」に関するcreditに関わる重要な問題だと考えています。

上記に限らず筆者は徹底して「数学は書き手が曖昧さ・厳密さに関する責任がある」という立場を取っていますので、

  1. 「主張が曖昧であり妥当な解釈の1つでは偽だが、こう解釈すれば真になる」という状況
  2. 「主張は文字通り読むと厳密にはこういう反例があるが、ネーター性/コンパクト性/非空性を追加で課せば正しい」という状況
  3. 単一の文脈で1つの語に断りなく複数の等価でない意味合いを持たせている状況
  4. 「主張は文字通り読むと厳密にはこういう反例があるが、主張に現れる用語を数学の通常の用語ではなく書き手が断りなく導入した独自の用語であるとみなせば正しい」という状況

も基本的には書き手の「間違い」とみなしています。

特に3と4は圏論における間違いが指摘された時に多発するので、便宜的にここだけの用語でそれぞれ「多重定義の詭弁」と「定義改竄の詭弁」と称することにします。

以上を踏まえて、この記事における「間違い」という言葉遣いを認識してください。つまり「私はこういう別の立場だからこれは間違いでない」という反論をいただいても、それは明記された言葉の意味を意図的に変えてしまっているのでご対応いただけません。

一方で「同じ立場で考えてもこれは間違いでない」というご指摘がございましたらそれは筆者の誤りの可能性がございますので、遠慮なくご指摘ください。

定義

文献によって「圏」と言った時にどの概念を指すかは様々です。混乱を避けるために、この記事内での言葉遣いを統一しておきます。

用語   説明
圏   対象全体と射全体がクラスをなすものとして定義されているもの。
     
局所小圏   個々の対象$X,Y$に対する射$X \to Y$全体が集合をなす圏。
     
小圏   対象全体と射全体が集合をなす圏。
     
グロタンディーク宇宙$U$に対する$U$圏   対象全体と射全体が$U$の部分集合をなす圏。
     
グロタンディーク宇宙$U$に対する$U$局所小圏   個々の対象$X,Y$に対する射$X \to Y$全体が$U$の要素をなす$U$圏。
     
グロタンディーク宇宙$U$に対する$U$小圏   対象全体と射全体が$U$の要素をなす圏。
     
素朴な圏   対象全体と射の全体がクラスとして扱えるかどうか気にせず厳密には未定義なまま素朴に扱われているもの。書き手が好きに暗黙な仮定をして良いので、ある意味で書き手の独自の概念。

「圏」に関する主張がある場合、「圏」が上記7概念のいずれかを指すものと判断することにします。これら以外にも流儀があります。そういった流儀を使いこなしている人はそもそもこの記事を読まないと思うので、ここでは割愛します。

以下、†圏†という文字列を含む文章は、「圏」が上記7概念のいずれかを指す流儀における主張を表します。つまりそこにおける†圏†の出現を上記7概念のいずれか1つにまとめて置き換えて得られる7種類の主張を意味しています。例えば「†圏†は†圏†である」は「圏は圏である」、「局所小圏は局所小圏である」、などの7種類の主張を意味します。

体系

この記事で集合やクラスを形式的に扱う際は、断りのない限り$\mathsf{ZFC}$公理系か$\textsf{NBG}$公理系を暗黙に課し(どちらでも通用する議論を行い)、諸概念や議論を文字通りに解釈した結果それらの体系の中で自然に形式化されているか否かを考えます。双方の公理系におけるクラスの扱いは形式的な圏論において前提知識とされるので、ここでも既知のものとします。

素朴な圏を扱う時は、公理系を持ち出さずに主観的に素朴な議論を行います。基本的に素朴な議論は仮定が不明瞭なので、明確な矛盾なく課せる範囲で最も強い仮定が置かれているようなもので、間違いか否かを問う文脈ではほぼ全て「適切な仮定を置けば正しいが、仮定が不明瞭」ということになります。

すると注意に書いた「間違い」を広く解釈する立場ではほぼ全て「間違い」となってしまうわけですが、それだと解説する意味がないことから明らかな自己矛盾を主張した場合のみ「間違い」とみなして解説します。その意味で、素朴な圏を使う議論は見た目「間違い」がほとんど生じにくい無敵な概念に見えるかもしれません。

代わりに形式化されている他の議論と比較して相対的に厳密性を欠くと考えていますが、圏論の入門記事を読む側がそういった厳密性を気にしないことも多いことから書き手と読み手の間にWIN-WINな関係を築けているのだろうと思います。しかしながら読み手が入門後も更に厳密に学ぼうとしなかった場合は、結果的に誤った結論を導いてしまうことがあるという点で危険性があります。

そのため書き手は読み手を意図せず騙さないように注意深く「この議論は厳密には間違っている」といったことを強調する必要があり、読み手は通常の数学書を読む際に気にすべき「何を示して何を認めたか」に加えて「何が本当は間違っているか」を意識することが望ましいです。

「クラスの集まり」の扱い

クラスの要素は集合でなければならないため、「(集合であることが明示的に保証されていない)クラスの集まり」を$\textsf{ZFC}$集合論や$\textsf{NBG}$集合論の内部で直接扱った場合に形式化されていないものとみなします。

特に論理式$P(x)$に対し、「$P(X)$を満たすクラス$X$全体の集まり」は勝手にクラスを集合に置き換えて$P(x)$を満たす集合$x$全体のクラス$\{x \mid P(x)\}$(つまり$P(x)$を実体とするクラス)として無理やり解釈するのではなく、文字通りに解釈して形式化されていないものとみなします。

例えば「クラス$V$のみからなる集まり$\{V\}$」を考えます。これは「条件$X = V$を満たすクラス$X$全体の集まり」ですが、この条件$X = V$は論理式$X = v$の$v$に$V$を代入したものなので通常の方法で$V$の出現を実体$y = y$に置き換えて解消することで得られる論理式は$\forall y[y = y \Leftrightarrow y \in X]$です。ということで「条件$\forall y[y = y \Leftrightarrow y \in X]$を満たすクラス$X$全体の集まり」を考えていることになります。これに対し勝手にクラスを集合に置き換えて条件$\forall y[y = y \Leftrightarrow y \in x]$を満たす集合$x$全体のクラス$\{x \mid \forall y[y = y \Leftrightarrow y \in x]\}$すなわち$\emptyset$と無理やり解釈するのではなく、文字通りに解釈して$\{V\}$を形式化されていないものとみなします。

ちなみにこのような解釈が標準的かどうかを確認するためのアンケートも取ってみました。$\textsf{ZFC}$集合論における「クラス$V=\{x \mid x=x \}$のみを要素に持つ集まり$\{V\}$」の扱いを

  1. 形式化されていない
  2. $\{v \mid v = V \} = \emptyset$として形式化されている
  3. $\emptyset$以外として形式化されている
  4. その他/閲覧用

の4択で訪ねたところ

  1. $45.9 \%$
  2. $5.4 \%$
  3. $0 \%$
  4. $48.6 \%$

となり、形式化されていないとする流儀が主流であることが分かりました。

調査対象

ネットで圏論の入門を扱っている有名どころとして

  • 壱大整域
  • nlab
  • wikipedia

を対象とし、それらに記述されている誤りも紹介します。圏論の入門記事では意図的に誤りが記述されることも多いですが、ここでは意図的であろうとなかろうと紹介します。

なおこれら3サイトへのリンクは記事執筆開始時点での最新版またはweb archiveにおける最新版を参照しています。各サイトが更新されてもそれらの版は不変であるため、各サイトの更新に応じてこの記事を更新するということはいたしませんのでご注意ください。

以下に各サイトで記事執筆開始時点で「圏」のどの流儀が採用されていると考えたかを表にしておきます。

文献   流儀   備考
壱大整域   「特に断らない限り、圏はlocally smallであると仮定しています」と述べられているので一見すると局所小圏を採用しているように見えますが、『圏の定義には「集まり」としか書いてなくてクラスとかそういうことは一切書いてない』とのことでどうやらクラスを考えているわけですらなく、「体系がどうとかそういうことは一切考えていない」らしいです。というわけで素朴な圏を考えていることになります。   壱大整域における素朴な圏はあくまで未定義な概念であり通常の数学における局所小圏とは別物なので、壱大整域の議論を通常の局所小圏に適用するのは議論の誤りであることが多々あります。通常の数学の概念に使われる用語を未定義な概念にも流用されている場合は2つの概念を混同しやすいので、読み手は細心の注意が必要となります。
         
nlab   foundationのレベルから色々な流儀があることを注意書きしている一方、foundationを固定した場合に結局どの流儀に従っているのかは明記されていません。ただsmallnessやlocal smallnesを用語として導入しているので、恐らく一般の圏を採用していると考えるのが妥当だと思います。   「nlabは数学者が書いているから信頼できる」という趣旨の説明を聞くことが多いですが、もちろん数学は信用や権威を証明の代わりに用いる学問ではありません。書いてある内容を鵜呑みにせず、証明をしていきましょう。
         
wikipedia   明確に一般の圏を採用しています。   「wikipediaは素人が書いているから信頼できない」という趣旨の説明を聞くことが多いですが、もちろん数学は信用や権威を証明の代わりに用いる学問ではありません。信用できようができまいが書いてある内容を鵜呑みにせず、証明をしていきましょう。

ある程度厳密に書かれた圏論の文献のおすすめをぴあのんさんに聞いてみたところ

  • Michael A. Shulman, Set theory for category theory
  • Michael Makkai, First-Order Logic with Dependent Sorts

を教えていただきました。筆者はそれらを読んだことがありませんが、圏論を厳密に学びたい人はそちらを参考にすると良いかもしれません。もちろんおすすめされたからといって書かれている内容を鵜呑みにするのではなく、きちんと証明して読んでくださることを想定しています。

目次

以下のよくある話題を扱っていきます。

  • 「圏論であれば集合論でできない議論もできる」か?
  • 「集合全体の集合は許されないが圏全体の圏は許される」か?
  • 「関手圏は圏」か?
  • 「米田の補題は任意の局所小圏で成り立つ」か?
  • 「$\infty$圏は圏の一般化」か?
  • 「本質的全射忠実充満関手は圏同値」か?
  • 「圏の対象の同型類の集まりはクラス」か?

「圏論であれば集合論でできない議論もできる」か?

この主張は曖昧であり、妥当な解釈次第では誤りとなります。その意味で、書き手が責任を持って曖昧さを排除すべきです。

例えば素朴な圏以外の圏の定式化では、いずれも集合論を用いています。その意味で、原理的に集合論を逸脱していないので、誤りです。

素朴な圏を素朴に扱っている(従って決まった定義がないので何でも許されると思い込んでいる)ならば、素朴な集合を素朴に扱い返せば同程度に何でも許されるので誤りです。パラドックスが許されないのは集合論でも圏論でも同様です。

「集合全体の集合は許されないが圏全体の圏は許される」という反論をする人もいますが、それは該当する章で説明するように誤った反論です。

「集合全体の圏の部分圏でない圏が存在する」という意味で使っていたり「圏の射が写像とは限らない」という意味で使っていたりするかもしれません。それ自体は正しいですが、それを言い出したら圏でない集合だって存在するので「集合論であれば圏論でできない議論もできる」とも言えてしまい、主張の仕方に問題があります。

順序数論を集合論を使わずに述語論理で定式化することと同様に圏論を述語論理で定式化する話なり、圏論のfoundationに関わる話なりをしているのかもしれません。それならそれで意図を明確にすべきです。 こういった「色々補ってこう解釈すれば正しいかもしれない」という見方はいくらでもできますが、そもそもそのような曖昧さがある時点で書き手に問題のある主張だと考えています。

「集合全体の集合は許されないが圏全体の圏は許される」か?

集合全体の集合が許されないことと同様に、†圏†全体の†圏†は許されません。これは射に関係なく対象だけを考えれば十分論証できます。

†圏†が圏である場合

「圏全体」はそもそも$\textsf{ZFC}$公理系でも$\textsf{NBG}$公理系でもクラスとして形式化されていないので、形式的に圏の構造を与えることができません。

nlabやwikipediaでもこのことは明確に述べられています。

†圏†が局所小圏である場合

「局所小圏全体」もやはりクラスとして形式化されていないので、形式的に局所小圏の構造を与えることができません。

†圏†が小圏全体である場合

小圏全体は真クラスになるので、形式的に小圏の構造を与えることができません。

†圏†が$U$圏である場合

任意のグロタンディーク宇宙$U$に対し、$U$圏全体は$U$に属さない離散圏$U$を要素に持つので、形式的に$U$圏の構造を与えることができません。

†圏†が$U$局所小圏である場合

任意のグロタンディーク宇宙$U$に対し、$U$局所小圏全体は$U$に属さない離散圏$U$を要素に持つので、形式的に$U$局所小圏の構造を与えることができません。

†圏†が$U$小圏である場合

任意のグロタンディーク宇宙$U$に対し、$U$小圏全体は自明モノイド全体のなす部分集合が$U$と全単射を持つので、形式的に$U$小圏の構造を与えることができません。

†圏†が素朴な圏である場合

「素朴な圏全体」が素朴な圏をなすと仮定し、それを$C$と置きます。$D$が$D$の対象とならない$C$の対象$D$のみを取り出すことで$C$の部分圏が得られるので、それを$R$と置きます(素朴なので条件を用いて部分圏を取るくらいやってもいいはずです)。

$R$が$R$の対象であると仮定すると、$R$の定義から$R$は$R$の対象とならない$C$の対象であるため、矛盾します。

従って$R$は$R$の対象ではありません。また$R$は素朴な圏なので$C$の対象です。従って$R$の定義より、$R$は$R$の対象となり矛盾します。

以上より「素朴な圏全体」が素朴な圏をなしません。

なお前述したように壱大整域ではlocally smallと銘打って実際には素朴な圏を考えていますが、圏論とは何かのp. 8で素朴な圏全体の素朴な圏が構成されています。

従って壱大整域はこの時点で矛盾しているわけで、実際p. 9にも『「全ての集合の集まり」を集合だとみなすと矛盾してしまうように,「全ての圏の集まり」を圏とみなすのも,集合論的に危ない所があり,厳密には気をつけて扱わないと矛盾してしまう』と丁寧に明記されています。

ここまで分かりやすく注意書きがあっても読み飛ばしてしまった場合、さすがに読み手に落ち度があると思いますので、壱大整域で学んだ上で関手圏が常に圏になると思い込んでしまった場合は数学書の読み方に気をつけましょう。

多重定義の詭弁

「圏全体は圏をなす」という主張の誤りが指摘されると、後出しで前者の「圏」は小圏を指し後者の「圏」は局所小圏を指すという言い訳をすることがありますが、これは多重定義の詭弁の典型例です。

それが許されるのであれば「集合全体は集合をなす」も前者の「集合」は遺伝的有限集合なりグロタンディーク宇宙の存在が課されている状況では最小のグロタンディーク宇宙の要素を指し、後者の「集合」は集合を指すことにすれば正当化できてしまいます。

「集合全体が集合をなす」という立場を許さないのであれば当然「圏全体が圏をなす」も許されないというわけですね。

そもそも数学において、課していなかった条件を後出しで課すこと自体が間違いだと思っているので、この多重定義の詭弁もまた間違いです。

「関手圏は圏」か?

†圏†から†圏†への関手圏は必ず†圏†をなすでしょうか? ただしこの疑問の意味はやや曖昧で、より正確には†圏†から†圏†への関手圏は必ず†圏†をなすように形式化されているでしょうか? 以下でも同様の意味でこの疑問を扱います。

圏から圏への関手圏が必ずしも圏をなさないこと

圏$C$から圏$D$への「関手全体の集まり」は小圏とは限らない圏を扱う文脈においてそもそも$\textsf{ZFC}$公理系でも$\textsf{NBG}$公理系でもクラスとして形式化されていないので、形式的に圏の構造を与えることができません。

wikipediaでは$C$が小圏であることが明確に課されています、

一方でnlabは$C$が小圏であるという条件が課されておらず、小圏とは限らない場合にはlocally smallになるとは限らないと書かれており、あたかも圏として定義はされた上でその性質が良いとは限らないと述べているので間違っています。

局所小圏から局所小圏への関手圏が必ずしも局所小圏をなさないこと

局所小圏$C$から局所小圏$D$への「関手全体」は小圏とは限らない圏を扱う文脈においてそもそも$\textsf{ZFC}$公理系でも$\textsf{NBG}$公理系でもクラスとして形式化されていないので、形式的に圏の構造を与えることができません。

なお壱大整域の自然変換・関手圏のp. 7では「一般には局所小圏にはならない」と述べられていますが、壱大整域は局所小を課すと言いながら素朴な圏を扱う立場を取っていることにご注意ください。つまり壱大整域の局所小性は形式的な定義のあるものではないため、ここで述べている局所小性と同一の概念ではありません。

実際、そもそも「関手全体の集まり」が形式化されていないことが問題であるので、関手圏が局所小とは限らない圏として定義されるという立場とは反しています。壱大整域で「局所小」という用語が出てきた時は通常の数学で厳密に定義される用語としての局所小とは等価でない未定義語だと思って注意しましょう。

色々述べましたが、関手圏$D^C$がそもそも圏として形式化されていないということは、それが局所小であるか否かを問うことすらできないということです。つまり「$圏D^C$は局所小か?」という問いであれば「有理数$0/0$が正か?」という問いと同レベルに意味を持ちません。「そもそも圏として形式化されていない」とか「そもそも有理数として形式化されていない」とか答えざるを得ず、その述語の真偽が問えないからです。

一方でAlweさんがアンケートを取ってみたところ、非常に多くの人が$D^C$が局所性とは限らないという(非形式的で)ことを「証明できる」と返答していました。これはすなわち、圏論の「証明」においては形式化された意味での局所小圏ではなく素朴な圏で議論することが主流であることを表しているのかもしれません。

小圏から小圏への関手圏が小圏をなすこと

任意の小圏$C,D$に対し、関手圏$D^C$は小圏となります。安心ですね。各自証明してください。

$U$圏から$U$圏への関手圏が必ずしも$U$圏をなさないこと

任意のグロタンディーク宇宙$U$に対し、ある$U$圏$C,D$が存在して関手圏$D^C$が$U$圏でないことを示します。

$C$を離散圏$U$と定め、$D$を離散圏$2$と定めます。$\textrm{Ob}(D^C)$は写像$U \to 2$全体の集合全単射であり、従って冪集合$\mathcal{P}(U)$と全単射です。従って単射$\textrm{Ob}(D^C) \to U$は存在せず、特に$\textrm{Ob}(D^C)$は$U$の部分集合ではありません。以上より、$D^C$は$U$圏ではありません。$\Box$

$U$局所小圏から$U$局所小圏への関手圏が必ずしも$U$局所小圏をなさないこと

上の例は$C,D$ともに$U$局所小圏です。従って任意のグロタンディーク宇宙$U$に対し、ある$U$局所小圏$C,D$が存在して関手圏$D^C$が$U$局所小圏でないです。

$U$小圏から$U$小圏への関手圏が$U$小圏をなすこと

\[ \textsf{ZFC} \vdash \textrm{「任意の小圏$C,D$に対し、関手圏$D^C$は小圏となる」} \]

より、任意のグロタンディーク宇宙$U$に対し

\[ U \models \textrm{「任意の小圏$C,D$に対し、関手圏$D^C$は小圏となる」} \]

すなわち任意の$U$小圏$C,D$に対し、関手圏$D^C$は$U$小圏となリます。

素朴な圏から素朴な圏への関手圏が素朴な圏をなすことを課しても素朴には矛盾しないこと

「素朴な圏」は未定義語なので、どのような構成を許すかは人それぞれです。例えば小圏で閉じるような操作しか許さないような立場の人もいるでしょう。

そのような立場では、素朴な圏に対する言明は、小圏に対して素朴に正しいである限り、素朴には矛盾しません。これは健全性を素朴に適用することで分かります。素朴って便利ですね。特に

\[ \textsf{ZFC} \vdash \textrm{「任意の小圏$C,D$に対し、関手圏$D^C$は小圏となる」} \]

より、$\textsf{ZFC}$集合論からの帰着を素朴に正しい言明と信じるのであれば、「任意の素朴な圏$C,D$に対し、関手圏$D^C$は素朴な圏となる」が素朴には矛盾しないことが分かります。

何たって素朴ですからね。形式的な話をしているわけではないんですよ。言葉遊びみたいで面白いですね。

例えば壱大整域では「圏」は断りのない限り局所小であると述べた上で、例: 単体的集合のp. 7で全ての「圏」が小圏の圏$\textrm{Cat}$に属すことを使っているので、壱大整域でも素朴な圏が小圏でもあることを実質課しています。十中八九ミスだとは思いますが、素朴な圏は定義がないので何の条件が課されているかすら確定しません、

なお素朴な圏が小圏であるとする流儀は$\textrm{Set}$を素朴な圏と扱っている流儀に反しており矛盾しますので、結果的に壱大整域の流儀だと間違っています。

いずれにしても壱大整域における素朴な圏はあくまで未定義な素朴な圏であり通常の数学における局所小圏とは別物なので、ここでも壱大整域の議論を通常の局所小圏に適用するのは議論の誤りであることに注意してください。

多重定義の詭弁

「圏から圏への関手圏は圏をなす」という主張の誤りが指摘されると、後出しで前者の「圏」は小圏を指し後者の「圏」は局所小圏を指すという言い訳をすることがありますが、これは多重定義の詭弁の典型例です。

命題を述べる際は条件を明確にし、条件が不足していたら誠実に訂正しましょう。

「米田の補題は任意の局所小圏で成り立つ」か?

$\textrm{Set}$が†圏†であるという流儀において、任意の局所小†圏†$C$に対し$\textrm{Set}^{C^{\textrm{op}}}$が圏をなすようにように形式化されており、かつ米田埋め込みが関手$C \to \textrm{Set}^{C^{\textrm{op}}}$を定めるでしょうか?

†圏†が圏である場合

局所小圏から局所小圏への関手圏が必ずしも局所小圏をなさないことの説明で述べたように、$C$が小圏とは限らない文脈では「$C^{\textrm{op}}$から$\textrm{Set}$への関手全体の集まり」がそもそも形式化されていないという意味で$\textrm{Set}^{C^{\textrm{op}}}$が圏をなすとは限らないので誤りです。

関手圏を用いずに個々の関手と自然変換についてだけ述べる場合は$\textrm{Set}^{C^{\textrm{op}}}$を使わなくていいので条件も変わりますが、全く別の主張になります。米田埋め込みに関する主張だからというだけで同じ条件を流用できるわけではありません。

nlabやwikipediaでは$C$が局所小なだけで米田の補題が成り立つと書かれており、間違っています。

†圏†が局所小圏である場合

やはり局所小圏から局所小圏への関手圏が必ずしも局所小圏をなさないことの説明で述べたように、$C$が小圏とは限らない文脈では「$C^{\textrm{op}}$から$\textrm{Set}$への関手全体の集まり」がそもそも形式化されていないという意味で$\textrm{Set}^{C^{\textrm{op}}}$が圏をなすとは限らないので誤りです。

†圏†が小圏である場合

$\textrm{Set}$がそもそも小圏でないので誤りです。後出しで$\textrm{Set}$をグロタンディーク宇宙$U$に相対化することがありますが、$\textrm{Set}$と$\textrm{Set}^U$は別物なので詭弁です。

†圏†が$U$圏である場合

任意のグロタンディーク宇宙$U$に対し、$\textrm{Set}$がそもそも$U$圏でないので誤りです。後出しで$\textrm{Set}$を$U$に相対化することがありますが、$\textrm{Set}$と$\textrm{Set}^U$は別物なので詭弁です。

†圏†が$U$局所小圏である場合

任意のグロタンディーク宇宙$U$に対し、$\textrm{Set}$がそもそも$U$局所小圏でないので誤りです。後出しで$\textrm{Set}$を$U$に相対化することがありますが、$\textrm{Set}$と$\textrm{Set}^U$は別物なので詭弁です。

†圏†が$U$小圏である場合

任意のグロタンディーク宇宙$U$に対し、$\textrm{Set}$がそもそも$U$小圏でないので誤りです。後出しで$\textrm{Set}$を$U$に相対化することがありますが、$\textrm{Set}^U$も$U$小圏ですらないので依然として間違っています。

†圏†が素朴な圏である場合

「素朴な圏」は未定義語なので、それを含む命題はいかようにも解釈できそうですね。というわけで米田の補題だけでは即座に矛盾を導くことはできなさそうです。

ちなみに壱大整域の米田の補題のp. 2では素朴な圏で米田の補題が成り立つとされています。

壱大整域における素朴な圏は断りのない限り「局所小」であるとされていますがあくまで未定義な素朴な圏であり通常の数学における局所小圏とは別物なので、ここでも壱大整域の議論を通常の局所小圏に適用するのは議論の誤りであることに注意してください。

また自然変換・関手圏のp. 7で関手圏が扱われる際は定義域側に暗黙に小圏であるという仮定があると思えばよいと記載されていることから、定理の主張も足りない条件を読み手が補うことを想定しているだろうことに注意が必要です。

ただ命題は仮定する条件を書き手が全て明記し、定理を適用する時には定理の適用条件を満たしていることを書き手が確認すべきであるということが数学における標準的な規範だと思っているので、壱大整域のように明確な断りをするわけでもなく実際に定理の主張で足りない条件を読み手が補うことを想定して書いている人がいたらそれは書き手が誠実さを尽くしていないと考えています。

それが許されるのであれば、$0$除算や極限の順序交換が行われた時には「読み手が$0$除算を避ける上限を補うべき」、「読み手が極限の順序交換に必要な条件を補うべき」という他責的な態度も正当化されてしまいかねませんし、ネーター性/コンパクト性/非空性が足りない議論も「読み手がそれらを補うべき」となってしまい議論の正しさについて書き手が一切担保しておらず読み手ごとに議論の解釈も揺れて再現性のない記述ということになってしまい、数学における標準的な規範から程遠いものになると思います。

多重定義の詭弁

「米田埋め込みを考える時は断りなく必ず小圏であることを課している」と後出しで言い訳するのはよくないですね。

命題を述べる際は条件を明確にし、条件が不足していたら誠実に訂正しましょう。

「$\infty$圏は圏の一般化」か?

$\infty$圏が†圏†の一般化であるか否かを考えてみましょう。ここで$\infty$圏の定義はHTTに準じ、simplicial setを用いるものとします。

†圏†が圏である場合

小圏を$\infty$圏とみなす標準的な方法を無理やり圏に拡張しようとすると、得られるものはもはや$\infty$圏ではありません。

wikipediaは一般の圏から$\infty$圏が得られることを主張しており、間違っています。

$\infty$圏そのものに関する主張ではありませんが、nlab にも圏が単体的集合とみなせると述べられて、これも同様に間違いです。

†圏†が局所小圏である場合

小圏を$\infty$圏とみなす標準的な方法を無理やり局所小圏に拡張しようとすると、得られるものはもはや$\infty$圏ではありません。

†圏†が小圏である場合

小圏は標準的な方法で$\infty$圏とみなすことができます。安心ですね。各自証明してください。

†圏†が$U$圏である場合

$U$圏は小圏なので、標準的な方法で$\infty$圏とみなすことができます。

†圏†が$U$局所小圏である場合

$U$局所小圏は小圏なので、標準的な方法で$\infty$圏とみなすことができます。

†圏†が$U$小圏である場合

$U$小圏は小圏なので、標準的な方法で$\infty$圏とみなすことができます。

†圏†が素朴な圏である場合

素朴な圏には定義がないので、何を課しているのかによります。小圏に相当する条件がなければ$\infty$圏になりようがないですが、そもそも形式化されていない概念を形式化されている概念が拡張していると考えること自体ナンセンスかもしれません。

例えば壱大整域では断りのない限り「局所小」であると明言されており、小であることは課されていません。しかしながら先述したように例: 単体的集合のp. 7で全ての素朴な圏が小圏の圏$\textrm{Cat}$に属すことを使っているので、壱大整域では素朴な圏が小圏でもあることを実質課しています。

いずれにしても壱大整域における素朴な圏はあくまで未定義な素朴な圏であり通常の数学における局所小圏とは別物なので、ここでも壱大整域の議論を通常の局所小圏に適用するのは議論の誤りであることに注意してください。

定義改竄の詭弁

後出しで「小圏を圏に拡張したように当然$\infty$圏も拡張した」と述べるのは典型的な定義改竄の詭弁です。

後出しで「$\infty$圏でsimplicial setが出てくるのはグロタンディーク宇宙$U$を念頭に置いているので圏も当然$U$圏のみを考えている」と言い訳をするのもよく見ますが、圏と$U$小圏は概念として別物ですので意図的に混同するのも定義改竄の詭弁です。

「本質的全射忠実充満関手は圏同値」か?

†圏†から†圏†への関手が本質的全射忠実充満であることと圏同値を与えることが同値であるかどうかを考えます。

†圏†が圏である場合

よくある議論は$\textsf{ZFC}$集合論だと形式化されておらず、間違っています。

$\textsf{NBG}$集合論では大域選択公理により形式化して証明することが可能ですが、保存性が成り立つのは$\textsf{ZFC}$公理系で形式化された命題であることに注意してください。

大域選択公理についてはAlweさんが詳しくまとめてくださっているのでそちらを参照してください。

wikipediaは同値であると断言しているので間違っています。断言した後で「より強い選択公理が~」など曖昧に述べていますが仮定を後付けするのは妥当な述べ方ではないと考えています。

同様の議論の誤りは

  • アーベル圏において、任意の対象が射影対象からのepimorphismを持てば、任意の対象が射影分解を持つ。
  • 直和を持つ圏において直和関手が定義可能である。
  • 逆極限を持つ圏において逆極限関手が定義可能である。

などのよくある命題を証明しようとした際に散見されますので、それらの「証明」を読んだ時に議論に飛躍がないか確認してみましょう。

†圏†が局所小圏である場合

やはりよくある議論は$\textsf{ZFC}$集合論だと形式化されておらず、間違っています。

†圏†が小圏である場合

小圏ではよくある議論が$\textsf{ZFC}$集合論で形式化できます。安心ですね。各自証明してください。

†圏†が$U$圏である場合

$U$圏は小圏なので、よくある議論が$\textsf{ZFC}$集合論で形式化できます。

†圏†が$U$局所小圏である場合

$U$局所小圏は小圏なので、よくある議論が$\textsf{ZFC}$集合論で形式化できます。

†圏†が$U$小圏である場合

$U$小圏は小圏なので、よくある議論が$\textsf{ZFC}$集合論で形式化できます。

†圏†が素朴な圏である場合

「素朴な圏」は未定義語なので、どのような構成を許すかは人それぞれです。例えば小圏で閉じるような操作しか許さないような立場の人もいるでしょう。

そのような立場では、素朴な圏に対する言明は、小圏に対して素朴に正しいものである限り、素朴には矛盾しません。

というわけで素朴に$\textsf{ZFC}$集合論の帰結を素朴に正しいものとみなす立場では、素朴な圏に関して矛盾を導くことは素朴にはできません。素朴ですからね、何せ。

ちなみに壱大整域の自然変換・圏同値のp. 7では追加の仮定なしで本質的全射忠実充満であることと圏同値を与えることが同値であると主張されています。

壱大整域における素朴な圏は断りのない限り「局所小」であるとされていますがあくまで未定義な素朴な圏であり通常の数学における局所小圏とは別物なので、ここでも壱大整域の議論を通常の局所小圏に適用するのは議論の誤りであることに注意してください。

「圏の対象の同型類の集まりはクラス」か?

†圏†の対象の「同型類全体の集まり」がクラスとして形式化されるているかを考えます。

†圏†が圏である場合

一般の圏の対象の同型類は集合とは限らないので、その全体の「集まり」はクラスとして形式化されていません。従ってその「集まり」は形式的には未定義なので、それをあたかもクラスか何かのように扱う議論は誤りです。このミスは

  • 圏の骨格やframeの存在を示す時
  • 体の代数閉包の存在を示す時
  • 集合に条件を満たす最弱の位相を定義する時
  • 位相空間に条件を満たす最小のコンパクト化を定義する時
  • 何らかの構造のモジュライを構成する時

にやりがちなので気をつけましょう。

同様の議論の誤りとして、射全体に同値関係を定めた時の同値類は集合とは限らないのに、その全体の「集まり」をクラスとして扱ってしまうというものがあります。このミスは圏の局所化を定義する時、特に導来圏を構成する時にやりがちなので気をつけましょう。

例えばwikipediaでは「射の同値類」を集めてクラスを作れることを断言しているので間違っています。

†圏†が局所小圏である場合

やはり一般の局所小圏の対象の同型類は集合とは限らないので、その集まりはクラスとして形式化されていません。

†圏†が小圏である場合

小圏では対象の同型類の集まりがクラスどころか集合になることが分かります。安心ですね。各自証明してください。

†圏†が$U$圏である場合

$U$圏は小圏なので、対象の同型類の集まりが集合になります。

†圏†が$U$局所小圏である場合

$U$局所小圏は小圏なので、対象の同型類の集まりが集合になります。

†圏†が$U$小圏である場合

$U$小圏は小圏なので、対象の同型類の集まりが集合になります。

†圏†が素朴な圏である場合

「素朴な圏」は未定義語なので、どのような構成を許すかは人それぞれです。例えば小圏で閉じるような操作しか許さないような立場の人もいるでしょう。

そのような立場では、素朴な圏に対する言明は、小圏に対して素朴に正しいである限り、素朴には矛盾しません。

というわけで素朴に$\textsf{ZFC}$集合論の帰結を素朴に正しいものとみなす立場では、素朴な圏に関して矛盾を導くことは素朴にはできません。定義がないっていうのは無敵なわけです。

ちなみに壱大整域の自然変換・圏同値のp. 13では追加の仮定なしで素朴な圏の対象の同値類の集まりを直接扱っています。

壱大整域における素朴な圏は断りのない限り「局所小」であるとされていますがあくまで未定義な素朴な圏であり通常の数学における局所小圏とは別物なので、ここでも壱大整域の議論を通常の局所小圏に適用するのは議論の誤りであることに注意してください。

定義改竄の詭弁

後出しで「同値類とは言ったが、実際には同値類そのものではなくスコットのトリックで部分集合を取り出せば良い」と述べるのは定義を別物に置き換えているので定義改竄の詭弁です。

何の断りもなく「同型類」と言ったら書き手独自の概念ではなく通常の数学で使われている同型類を指すと考えるのが妥当です。

自分用覚え書き

github pagesで数式を使う際は、inlineであってもなくても閉じカッコと半角アンダーバーの間に半角スラッシュを入れないとmarkdownからhtmlへの翻訳の仕様でバグるらしい。

数式環境をくくる大括弧と数式環境内の中括弧や半角空白は半角スラッシュ2つ、改行は半角スラッシュ5つ、その他は基本的に半角スラッシュ1つで良さそう。htmlとmathjaxの関係が難しい。

arrayとalignはどちらも使える。arrayが使えない気がしてしまったのは中括弧につける半角スラッシュの個数を間違えていたから。alignはアンパサンドを等号の右側につけて半角空白を2つ入れると幅がちょうど良さそう。arrayなしだとアンパサンドは使えない。